柳森神社
江戸の閑静なお社
柳森神社(神田須田町二丁目2-25)
柳森神社は、1458年(長禄2年)、太田道灌が江戸城の鬼門除(きもんよけ)として、多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来する神社です。
通称おたぬきさんと呼ばれる柳森神社は、江戸幕府5代将軍の徳川綱吉の母、桂昌院(けいしょういん)が信仰した福壽神(ふくじゅしん)が祀られ、「たぬき=他に抜きんでる」ということから、立身出世や勝負事・金運向上・商売繁盛・良縁などに御利益があるとして信仰を集めてきました。
柳森神社はまたの名を柳森稲荷神社といいます。そのため、土堤(どて)の稲荷、方除(ほうよけ)いなり、火防(ひぶせ)のいなりなどの俗称がありました。土堤のいなりとは、神社が『江戸名所図会』をはじめ広重の絵などに描かれ、歌にも詠まれる景勝地であった柳原堤に位置していたことに由来します。方除いなりは、江戸城の鬼門除の社であったことに、火防いなりは金亀山稲荷つまり城中火防の社であったことに由来します。
柳森神社の境内には様々な文化財があります。
手水鉢
入口階段をおりてすぐにある手水鉢は、神社のなかで最も古いもので元禄期のものではないかと考えられています。
富士講関連石碑群および富士塚
手水鉢の右手には千代田区指定文化財となっている富士講関連石碑群があります。富士講とは、富士山を信仰する人々で結成した集団のことです。富士塚は、富士山と同じ浅間神社が祀られているため、その傍らに関係する講の記念碑が建てられました。富士山信仰が盛えたのは江戸時代でしたが、実際に富士に行くのは困難で、人々はミニチュアの富士塚に登って信仰儀礼や、代参者の安全祈願をしていました。柳森神社の富士塚は今はありませんが、その石は鳥居の下の石段脇に残されています。23区には今もまだ残っている富士塚がありますが、千代田区では柳森神社に痕跡を残すだけです。
力石群
力石は、かつて若者たちが力試しに用いた石です。
鏝絵(こてえ)
道路側から神楽殿の横を見ると鏝絵があります。柳森神社の鏝絵は、入江長八の弟子の吉田亀五郎の弟子の作品ではないかと考えられています。まるで鯉が生きて水の音が聞こえてくるような躍動感がある作品です。
更新日:2022年10月03日