九段坂

更新日:2022年10月03日

道路沿いに設置された九段坂の説明板の写真

場所:九段南一丁目6先 田安門進入路北東角歩道

遊歩道の真ん中に木々が植えられ、九段坂の説明板が設置されている写真

場所:九段北一丁目13先

古くは飯田坂と呼ばれていました。名前の由来は、坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って建っていたためとも、急坂であったため九つの段が築かれていたからともいわれています。1871年(明治4年)、九段坂の上に靖国神社の燈籠として高燈籠(常燈明台)が建設されました。また、高燈籠に隣接して陸軍の将校クラブである偕行社が建てられました。
関東大震災後の帝都復興計画で坂を削り緩やかな勾配にする工事が行われ、九段坂は大正通り(現在の靖国通り)として東京の主要な幹線道路の一部となりました。この工事の際、高燈籠は通りを挟んだ反対側(現在地)に移設されました。

詳細情報

 古くは飯田坂と呼ばれていました。名前の由来は、坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って建っていたためとも、急坂であったため九つの段が築かれていたからともいわれています。1871年(明治4年)、九段坂の上に靖国神社の灯籠として高燈籠(常燈明台)が建設され、地域のランドマークとなりました。この燈籠の灯は、遠く品川沖からも見えたと言います。また、1880年(明治13年)には常燈明台に隣接して陸軍の将校クラブである偕行社(かいこうしゃ)が建てられました。
 急な坂道の様子や坂上の燈籠、偕行社などは雑誌の挿絵、錦絵や絵葉書などにも多く取り上げられ、東京名所の一つとして親しまれました。九段坂の上からは神田や駿河台方面を望むことができました。九段坂上から撮影した戦前の写真や絵葉書には、駿河台のニコライ堂の姿を見ることができます。
 明治後期、九段坂下から市ヶ谷方面に市電を通す必要が生じましたが、勾配が急であるため電車が登ることができず、牛が淵(北の丸公園に沿った堀)側の勾配を削り緩やかにして線路を敷設しました。
 関東大震災後、帝都復興計画で坂を大幅に削り勾配を緩やかにする工事が行われました。この工事の際、高燈籠は通りを挟んだ反対側(北の丸公園側:現在地)に移設され、また道路北側の地中には当時としては画期的な技術である共同溝が設置されました。九段坂は大正通り(現在の靖国通り)として東京の主要な幹線道路の一部となり現在に至ります。

九段坂の標柱の設置位置を示した地図

【明治時代の九段坂周辺】
赤丸の部分が標柱の設置位置。「東京一目新図」より。

九段坂上に建てられた高燈籠の白黒写真

九段坂上の高燈籠(常燈明台)。当初は靖国神社の正面
(現在とは道を挟んで反対側)にあった。明治20年代撮影。
千代田区教育委員会蔵

坂の中腹から奥に住宅が密集し、その中央奥にニコライ堂が見えている白黒写真

九段坂の中腹から神田・駿河台方面を撮影。
中央にニコライ堂が見える。明治20年代撮影。
千代田区教育委員会蔵

九段坂を多くの人々が行き交う様子が描かれた版画を写した写真

九段坂を描いた版画。坂道が急なため人力車や荷車は上るのに苦労したという。絵の中央には人力車を後ろから押す人物が描かれている。『東京名所図会 麹町区之部』(東陽堂、明治31年)掲載千代田区教育委員会蔵

左側の電専用道路を市電が走っており、後方に住宅が密集している九段坂の上から写した白黒の風景写真

九段坂の上(田安門前付近)から神田・駿河台方面を撮影した写真絵葉書。牛が淵に沿って緩やかに削られた部分を市電が走っている。明治末~大正時代に撮影。
千代田区教育委員会蔵

左側の道路の傾斜を緩やかにする工事が行われており、右側を人々が歩いている様子の白黒写真

昭和初期に行われた九段坂の傾斜を緩やかにする工事の様子。画面右端に靖国神社の大鳥居と狛犬が写っている。
左下は舗装に使用する煉瓦。
山本三生編『日本地理大系 大東京篇』(改造社、1930)

周辺に木々が立ち並び、道路の中央を市電が走っている様子を上空から写した絵葉書の白黒写真

傾斜を緩やかにする工事が終了した後の九段坂の絵葉書。
市電が通りの中央を走るようになった。この工事の際、靖国神社正面にあった高燈籠は現在の位置に移設された。
千代田区教育委員会所蔵