九段坂
古くは飯田坂と呼ばれていました。名前の由来は、坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って建っていたためとも、急坂であったため九つの段が築かれていたからともいわれています。1871年(明治4年)、九段坂の上に靖国神社の燈籠として高燈籠(常燈明台)が建設されました。また、高燈籠に隣接して陸軍の将校クラブである偕行社が建てられました。
関東大震災後の帝都復興計画で坂を削り緩やかな勾配にする工事が行われ、九段坂は大正通り(現在の靖国通り)として東京の主要な幹線道路の一部となりました。この工事の際、高燈籠は通りを挟んだ反対側(現在地)に移設されました。
詳細情報
古くは飯田坂と呼ばれていました。名前の由来は、坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って建っていたためとも、急坂であったため九つの段が築かれていたからともいわれています。1871年(明治4年)、九段坂の上に靖国神社の灯籠として高燈籠(常燈明台)が建設され、地域のランドマークとなりました。この燈籠の灯は、遠く品川沖からも見えたと言います。また、1880年(明治13年)には常燈明台に隣接して陸軍の将校クラブである偕行社(かいこうしゃ)が建てられました。
急な坂道の様子や坂上の燈籠、偕行社などは雑誌の挿絵、錦絵や絵葉書などにも多く取り上げられ、東京名所の一つとして親しまれました。九段坂の上からは神田や駿河台方面を望むことができました。九段坂上から撮影した戦前の写真や絵葉書には、駿河台のニコライ堂の姿を見ることができます。
明治後期、九段坂下から市ヶ谷方面に市電を通す必要が生じましたが、勾配が急であるため電車が登ることができず、牛が淵(北の丸公園に沿った堀)側の勾配を削り緩やかにして線路を敷設しました。
関東大震災後、帝都復興計画で坂を大幅に削り勾配を緩やかにする工事が行われました。この工事の際、高燈籠は通りを挟んだ反対側(北の丸公園側:現在地)に移設され、また道路北側の地中には当時としては画期的な技術である共同溝が設置されました。九段坂は大正通り(現在の靖国通り)として東京の主要な幹線道路の一部となり現在に至ります。
更新日:2022年10月03日