国立衛生試験所発祥の地
場所:神田和泉町2先
国立衛生試験所(現、国立医薬品食品衛生研究所)は、わが国最初の国営医薬品試験研究機関、東京司薬場として、1874年(明治7年)3月、現在の中央区日本橋馬喰町に発足し、1875年(明治8年)に現在の千代田区神田和泉町2番地で本格的業務を開始しました。
1945年(昭和20年)3月の東京大空襲に罹災し、世田谷区上用賀に移転したのち、2017年(平成29年)10月に川崎市に移転しています。
明治維新後、海外からの薬品の輸入が本格化しましたが、薬品を取り扱う業者ですら西洋の薬品の知識や鑑別法に不慣れだったことから、贋薬や不良品を売りさばく悪質な業者が横行しました。そのため、真正品を取り扱う外国商人からも、贋薬の取り締まりをしてほしいとの陳情が税関などに寄せられるようになりました。贋薬の横行は人命に関わる問題であるため、1874年(明治7年)文部省医務局が中心となり薬品取り締まりの機関として司薬場が設置されました。当初、日本橋馬喰町に仮庁舎を置きましたが、直後に神田和泉町の医学校校舎跡に移転し、1875年から本格的な業務を開始しました。同年に内務省医務局(後に衛生局)の管轄に移りました。
当初の業務は薬品の検査でしたが、製薬学教場の併設、食品の栄養分析や上水の検査をはじめとする衛生全般に業務内容は拡大し、名称も1883年(明治16年)に衛生局試験所、1887年(明治20年)に東京衛生試験所と改称されました。1897年(明治30年)には、栃木県の足尾銅山で発生した鉱毒事件に際して政府から命令を受けて衛生試験所が渡良瀬川流域の調査を数年かけて行っています。
この間、神田和泉町の敷地には1877年(明治10年)に木造の本館が建設、1886年(明治19年)に試験室が竣工しましたが、本館の建物は老朽化が進んだため1909年(明治42年)に煉瓦造りで新築されました。
大正時代になると、臨時製薬部が試験所内に設置され重要な医薬品の製造法の調査・試験を実施するようになりました。試験の結果は製薬業者に公表され、製薬の技術発展に活かされました。特に、第一次世界大戦が勃発すると、薬品輸出の需要が高まり、日本で質の高い薬品を安定的に供給できる体制が求められました。そうした点からも衛生試験所の調査や研究活動は重要な意味を持ち、1918年(大正7年)には医薬品製造試験部が新たに設置されるに至りました。1923年(大正12年)の関東大震災では、煉瓦造りの本館に被害はなく、構内に臨時診療所を設けると共に救援薬品類の配給を行うなど、救護活動に尽力します。
昭和期に入ると製薬部門の拡大が著しく、目黒に製薬工場を建てました。日中戦争から太平洋戦争に至る戦時体制下において、厚生省の所管となり、また軍需用薬品の製造や輸入に頼っていた薬品の国産化などを行いました。しかし、1945年(昭和20年)3月10日の東京空襲によって神田和泉町一帯は大きな被害を受け、衛生試験所もごく一部を残して灰燼に帰しました。
戦後の1946年(昭和21年)、GHQが接収していた旧陸軍の衛生材料本廠内の建物(世田谷区玉川用賀町)に試験所は移転し再スタートを切りました。1949年(昭和24年)、名称が国立衛生試験所と改称され、現在は川崎市に移転し国立医薬品食品衛生研究所となっています。
更新日:2022年10月03日