馬場先門跡

更新日:2022年10月03日

街路樹に馬場先門跡の説明板が設置されている写真

場所:皇居外苑1先 馬場先門交差点から皇居外苑方面の歩道植栽内

門の名は、寛永期(1624~1644年)に門内の馬場で朝鮮使節の曲馬を将軍が上覧し朝鮮馬場と呼ばれていたことに由来します。門は1629年(寛永6年)に築造されました。枡形石垣は1906年(明治39年)に撤去されました。
明治維新後、二重橋からこの門を経た丸の内一帯は東京の中心街となり、現在も丸の内には復元された三菱一号館や、明治生命館、東京府庁舎跡などがあります。

詳細情報

馬場先門は 江戸城内郭門の一つです。門の名は、寛永期(1624~1644年)に門内の馬場で朝鮮使節の曲馬を将軍が上覧し、朝鮮馬場と呼ばれていたことに由来します。門は1629年(寛永6年)に築造されました。
明治維新後、二重橋からこの門を経た丸の内一帯は東京の中心街となり、門に面した丸の内側には三菱二号館や東京商業会議所などが建てられました。三菱の煉瓦建築が建ち並ぶ様子は、一丁倫敦(いっちょうロンドン)と呼ばれ、近代化を象徴する場所となりました。現在も丸の内には復元された三菱一号館や、明治生命館、東京府庁舎跡などがあります。
日露戦争中の1904年(明治37年)5月8日、第一回戦勝祝賀会で行われた提灯行列で、東京府庁舎(現在の東京国際フォーラム)を通過した一群が馬場先門から二重橋へ向かおうとしました。ところが、馬場先門の橋を渡ったところで通行規制されたため、枡形門の中に多くの人々が押し込められることになり、20名の死者を出す惨事が発生しました。
この事件を受けて、馬場先門の桝形石垣と橋が撤去され、堀も埋め立てられ約72メートル幅の道路が建設されました。この道路建設に合わせて、大手門から和田倉門内へ入る道と、馬場先門内から日比谷公園へ至る道が1906年に建設され、凱旋道路と名付けられました(現在の内堀通り)。
同年には日露戦争の戦勝を祝賀する凱旋門が馬場先門の桝形石垣のあった場所に建設されました。

煉瓦建築が建ち並び、人々が行き交う様子を描いたイラスト

馬場先門前の三菱二号館(左)と東京商業会議所。

(絵葉書、千代田区教育委員会蔵)

両側に煉瓦建築が建ち並び、馬場先通りを歩いている人々を写した白黒写真

馬場先通りを皇居に向かって撮影した写真。両側に煉瓦建築が建ち名並ぶ様子は一丁倫敦と呼ばれた。

(絵葉書、千代田区教育委員会蔵)

凱旋道路(現在の内堀通り)を記したイラスト地図

1906年に建設された道路。馬場先門の門と橋を撤去するとともに、大手門~日比谷公園に通じる凱旋道路(現在の内堀通り)が新設された。

3つのアーチ状の入り口があり、上部のドーム型部分に国旗が掲げられている凱旋門を左斜めから全体を写した白黒写真

1906年の日露戦争祝賀のために馬場先門に建設された凱旋門。祝賀会の終了後に撤去されている。

(絵葉書、千代田区教育委員会蔵)

濠や石垣があり、広大な敷地の奥に城が建っている馬場先門の絵葉書の写真

馬場先門を撮影した大正初期の写真。
大正時代には道路は舗装されていないが、現在も周辺の景観はほとんど変わっていない。

(絵葉書、千代田区教育委員会蔵)