大久保利通の哀悼碑

更新日:2022年10月03日

維新の元勲を称える

大久保利通の哀悼碑(紀尾井町2-1 清水谷公園)

大久保利通の大きな墓石の横に哀悼碑が設置されている青山霊園の写真

 1878年(明治11年)5月14日、内務卿大久保利通の暗殺事件がおきたのは清水谷(参議院清水谷議員宿舎前、紀尾井町清水谷)です。灯火を持ち馬車を先導した人物が紀尾井坂を上っている最中に事件が起きたとされたことから、紀尾井坂の変とも言われています。

 大久保利通(1830-1878年)は、西郷隆盛(1828-1877年)、木戸孝允(たかよし)(1833-1877年)とともに維新の三傑とされています。明治維新後は版籍奉還、廃藩置県などを主導し、初代内務卿に就任するなど、明治の礎を築きました。維新政府は旧体制、主に士族解体に反発する旧士族の乱を次々と鎮圧。1877年(明治10年)に、最後の内戦といわれる西南戦争で薩摩藩旧士族を制圧しました。その結果、政府及び大久保は旧士族の標的とされ、赤坂仮皇居内の太政官へ出仕途中に襲われました。

 1878年(明治11年)5月の「送葬略記」(国立公文書館所蔵)には、大久保利通が受けた傷を「前頭切創、右頭側面切創、頭蓋骨切断、後頭切創、左頚部突創、右頚部切創、右鼻側切創、左下顎切創、右肩胛突創、右腕切創、右手背切創、左腕切創、左手背切創、右腰部切創、左膝下内側面切創」と記されています。これら無数に及ぶ傷は、実行犯の大久保への反発と殺意の強さを物語っています。

 大久保は西南戦争で西郷隆盛率いる鹿児島旧士族を制圧したことから、故郷での埋葬がかなわず東京都港区の青山霊園に埋葬されました。墓地の広さは別格で、神社のような鳥居が設置され、亀趺(きふ)の上に据えた大きな墓石と青銅製の哀悼碑等は、当霊園における最大最高の慰霊を示しているともとれます。

 1888年(明治21年)、受難の地近くの北白川宮家の敷地(その後1890年東京市に下賜され清水谷公園として整備。1965年に千代田区立清水谷公園となる)に、太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ)の揮毫による大久保利通哀悼の碑が建立されました。碑文には、「大久保公は一身を国家に捧げその業績は誰の目にも明らかである。亡くなって幾年の歳月が流れてもその功績を称える人は多い。公の業績は歴史家が記録し、公の墓碑にも刻まれている。哀悼碑もそれを後世に伝えるものである。」といった内容の文言が刻まれ、彼の功績を高く評価し後世に伝えたいという思いが込められています。

 冷徹な意思決定と情を排した実行力で明治国家の礎を築いた大久保利通。彼の功績を称える哀悼碑を訪れる人は、今後も絶えないことでしょう。

(注意)哀悼碑は現在千代田区指定文化財になっています。

丘の上の葉っぱがついていない枝に囲われた大久保利通君誕生之地と書かれた石碑と右上に肖像画がある白黒写真

大久保利通肖像(絵葉書、個人蔵)

工事されている建物の横にベージュの外壁をした家屋が建つ北白川宮家の敷地を写した写真

大久保利通受難の地付近