九段富士見花柳界
料亭に芸者行き交う伝統と賑わいの町
九段富士見花柳界(九段南二丁目、三丁目)
九段と言えば、靖國神社、日本武道館、千鳥ヶ淵、北の丸公園などに櫛比するビル街の景観を思い描く方が多いでしょう。この界隈が、昭和初期、花柳界として栄えた場であったことをご存じでしょうか。
置屋、料理屋、待合から成る三業組合が現・九段さくら館のある場所に会館を設立し、その場が三業を取り継ぎ、見番という芸者の事務的要素を担っていました。
バブル期の地上げ等で既に廃業していますが、九段南二丁目、三丁目など江戸時代にお屋敷町だった地には、僅かながら料亭の面影を残す古い建物が残存しています。神楽坂、新橋等に並び、250~300名もの芸者達が、車で乗り付けていた政界の著名人等、旦那衆を日々のお稽古で磨いた小唄や舞いで、もてなしていたとのこと。お正月や日枝神社の周年記念の際は、黒紋付、裾引きの「出の着物」で彩られ、さぞや華やかで、粋で、あでやかな香りが漂っていたに違いありません。
芸者さんは置屋のお母さんをはじめ、唄や踊りのお師匠さんより芸はもちろん、先輩芸者さんから行儀や礼儀作法、言葉遣いなどの厳しい教えを受けます。元より容姿端麗で聡明な女性が、更に美しく輝き、三味線を持つ箱屋さんと呼ばれる男性と共にお座敷を巡りました。当時忙しく働いていた様子は、かつて料亭や芸者をされていた方々より伺えました。
芸者の料金は、玉代と称されていました。まだ一人前になる見習いの芸者は、料金が半額であるため半玉と呼ばれ、独り立ちできるようになると一本さんと言われていたとのこと。
それら花柳界独特な言い回しも、どこかいなせな響きで、高い美意識を有した別世界を思わせます。
当時の写真などと共に、それらを想い起こすことのできる貴重な話は、これからも九段の佇まいにあった大切なひとつの文化として記憶に残したいものです。
更新日:2022年10月03日